寡占化を強化

36年22万4595台を生産し35年の27万8032台とともにピークに達した三輪車は、43年には2万2794台、全自動車生産の1.3%におちこみました。


中古車情報によると、車種別にみれば、33年に生産をはじめ三輪車の発展に寄与した軽三輪車の衰退がはげしく、36年の13万8365台から43年には6984台へと減少した。


そして三輪車は、小型三輪車が主流に復帰したものの完全に過去の遺物となったのです。


こうした三輪車の衰退は、会社別にみればダイハツ、東洋工業の寡占化を強化させました。

三輪車の衰退

二輪車工業は、寡占化され小企業多車種時代へ突入するとともに、その余力をもって本来の自動車工業の主流というべき乗用車メーカーへ転換しはじめました。


しかし、前述したごとく専用工場を建設し後退中小乗用車メーカーへ脱皮しはじめたものの、軽四輪車を生産したにとどまったのです。

中古車情報によれば二輪車の安定的成長にくらべ三輪車の衰退はいちじるしかったそうです。


戦前、戦後トラックの代用として日本的発展をとげた三輪トラックは、小型四輪トラックの世界的発展とともに急減しました。

減産の一途をたどった

軽二輪車でも、40年まで半ば以上生産しつづけた本田の独占、ヤマハ、鈴木の進出、川崎航空(39年)、ブリジストン(40年)の新規参入で39年以降弱まりながら、本田をふくめた上位三社で寡占化されはじめました。


斜陽化したスクーターでは、はじめ富士重工と新三菱との二社で生産されたが、27年から35年にかけて新規参入した平野、ヤマハ、本田東昌などがつぎつぎにその生産を中止し、三菱ですら40年(気筒容積126㏄~250㏄)、41年(気筒容積51~125㏄)には、その生産を中止しました。


そして、中古車情報によると、富士重工だけが細々と生産しつづけながら減産の一途をたどったそうです。

独占的地位に到達

中古車検索でみてみると、自動二輪車では、33年から35年にかけて全自動二輪の半ば以上を生産しつづけた本田は、36年には86・1%、39年には96・2%と独占的地位に到達したそうです。


その後40年以降その独占的地位がやや弱化したが(43年77・1%)、それは、目黒(38年脱落)、丸正(35年脱落、38年一時復帰)その他のメーカーを除く川崎航空が40年、鈴木と、ブリジストンが42年から新規参入し、ヤマハが40年以降量産を開始したためです。


自動二輪車もまたほぼ本田を軸とする二~三社でその大部分が生産されました。

特徴

原付一種では、本田がトップ・メーカーとしての地位を維持しつづけ、36年のほぼ半ば(53.3%)から39年以降7割台(39年69・4%、41年62・5%、43年66・0%)で一進一退し、鈴木、ヤマハを加えれぽ43年には完全な寡占化段階(99・1%)に達しました。


中古車情報によれば、原付二種では、本田はトップ・メーカーとして全オートバイの半ば以上を生産し(36年53・8%、39年61・5%、43年55・0%)、2位の鈴木(40年以降3位)、3位のヤマハ(40年以降2位)ともに36年78・6%、39年93・8%、43年は91・9%を生産したそうです。


ただしモペットとちがって上記三社で完全に寡占化されず、川崎航空、ブリジストン、その他の中小メーカーの生存を許したことに特徴があります。

世界一に達した

こんにちは。前回の続きですが、39年以降、生産台数も200万台で一進一退し、27年以降しめつづけた首位の座を42年には四輪車にあけわたしました。


しかし国際的にみれば全ヨーロッパ諸国の生産を追いぬき世界一に達しました。


まさに二輪車は世界を制覇した後ひとまず安定成長期に突入したのです。


中古車情報によりますと、車種別、会社別にみれば、31年から35年にかけてと同じく小型軽量化へむかい原付一、二種のモーターサークルが圧倒的に生産されました。


そして多数企業の激烈な競争をへて本田をプライス・リーダーとした鈴木、ヤマハの寡占化が確立したのです。

こんにちは

はじめまして。ブログを始めました。


車のこと、中古車情報のことなどをマイペースに更新していきたいと思います。


伸びの鈍化と寡占化の完了。


昭和31年から36年にかけて全自動車生産の6割以上をしめつづけた二輪車は、36年以降ようやくその成長率を鈍化させ四輪車に押されはじめました。


すなわち、36年180万4371台、全自動車生産の63.5%に達した二輪車の生産台数は、43年には225万1335台、全自動車生産の35・4%へ下落しました。

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性格竹を割ったよう
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